武尾梅吉積徳之地

1. 外観

表面 右側面 裏面

2. 碑銘

2-1. 表面

武尾梅吉積徳之地 谷峩村中

2-2. 右側面

明治廿にじゅう二年己丑つちのとうし四月五日建立
※ 『足柄の文化 第42号』-p.97より

2-3. 裏面(碑文対訳)

太字:原文  青字:訳文
 附言
明治ノ大政一タビあらたマルヤ、どう二年乙巳きのとみ正月、各地ノ関門ヲ廃シ之ガ付
明治時代になると、明治二年の一月より各地の関所が廃止され付随する
属ノ要害地ハ共ニ官地ニ編セラレントス、君之ヲ聞クヤ、驚愕惜ク能きょうがくおくあた
要害地もすべて官地に編入されることになるとされた。氏はこれを聞くと驚かずにはいられず、
ズ、苦心焦思くしんしょうしシテ家ニ蔵スル所ノ古畫圖がとヲ調査シ、夜以て日に晷ぎよるもってひにつぎ、百方
あれこれ悩み家にある古画図を調査し昼夜を問わず様々な手段で
之ガ捜索ニつとム、幸ニシテ確乎かっこタル證跡しょうせきヲ得シカバ大ニ喜ビ、同年二月
この捜索に力を尽くした。幸運にも確かな証拠を見つけ大変喜び、同年二月に
願書ヲしたたメ、右古畫圖がとヘテ、該山ノ民地編入ヲ請フ、官之ヲ詮議シ、同
願書を書き、右古絵図を添付し、その山の村への編入を申請した。役人はこれを審議し、
年八月廿一日ニ至リ、わずかニ認可ノ命ヲこうむルヲ得タリ、乃ハチ以テ谷ケ
その年の八月二十一日にようやく承認された。こうして山の土地は谷ケ
村共有財産ト爲ス、是ニ於テ衆庶相謀しゅうしょあいはかリ石ヲて、なづケテ武尾梅吉積徳
村の共有財産となったのである。この機会に皆で相談の上石碑を建立し、武尾梅吉積徳之地と
ノ地ト曰ヒ、以テ君ノ功徳ヲ表シ併セテ共有山タルヲス、後世子孫其
名付け、氏の功績を表すとともに共有山であることの証しとする。後の世代の子孫達は
レ能ク此ノ意ヲたいシ、心ヲ苟クこころをいやしくモセズ、ちからあわセテ之ヲまもリ、該共有山ヲ
よくこの意味を理解し、おろそかにせず、力を合わせてこれを守り、共有山を
シテ永谷ケ村ノ不動産タラシメバ、復以テ君ノ効勞ニ報ユルニ、庶幾しょき
永く谷ケ村の不動産とするのなら、また氏の功労に報いるため、願わくば
カランカ、後ノ谷ケ村ニしょスルモノ、此言ニ背カザラン■■之レ望ム。
後の谷ケ村に住む者達がこの言葉に背かずにいてくれることを望む。
※ 碑文の原文テキストは『足柄の文化 第42号』-p.97を参考にさせて頂き一部修正(赤字)した
は碑文からは判読出来なかった文字(写真赤線の横)
※ 碑文の左端にも文字がかすかに見える(写真赤丸の内部)

3. 単なる感想

 明治政府による関所の廃止令が明治2年1月20日に布告されたことから考えると梅吉氏は一ヵ月足らずで願書を書上げ、小田原藩に申請したことになる。 「苦心焦思シテ...」という件があるが苦心焦思とは「困難な問題に直面し、深い思考と心の焦りによって心身ともに疲弊している様子を表す」とのこと(by Google)。 焦りつつ書いて役人に認めさせた願書とはどの様なものだったのか...「右古畫圖ヲ副ヘテ」という記述からも古絵図が重要な意味を持っていたのだろう。
 先日、上記口語訳の添削を小山町の扇屋さん(小山町史編纂委員で祐治氏存命の頃の大家には何度も訪問)にお願いしに伺ったとき、古絵図は村の境を示す絵図だろうとのことで 小山町の某村の絵図を見せていただいた。恐らくこの種の絵図を効果的に使ったプレゼン資料を提出して役人を納得させたのだろうとは想像するが...少し興味が湧いた。

 尚、谷ケ共有山百年の碑には「明治初年小田原藩領約参百五拾町歩を谷ケ村共有山として拂ひ下げを受け」とあり 「明治初年」が何年か不明で年表には「18XX年(明治X年)」としていたが「1869年(明治2年)」に修正した。