附言
明治ノ大政一タビ革マルヤ、仝二年乙巳正月、各地ノ関門ヲ廃シ之ガ付
明治時代になると、明治二年の一月より各地の関所が廃止され付随する
属ノ要害地ハ共ニ官地ニ編セラレントス、君之ヲ聞クヤ、驚愕惜ク能ハ
要害地もすべて官地に編入されることになるとされた。氏はこれを聞くと驚かずにはいられず、
ズ、苦心焦思シテ家ニ蔵スル所ノ古畫圖ヲ調査シ、夜以て日に晷ぎ、百方
あれこれ悩み家にある古画図を調査し昼夜を問わず様々な手段で
之ガ捜索ニ力ム、幸ニシテ確乎タル證跡ヲ得シカバ大ニ喜ビ、同年二月
この捜索に力を尽くした。幸運にも確かな証拠を見つけ大変喜び、同年二月に
願書ヲ認メ、右古畫圖ヲ副ヘテ、該山ノ民地編入ヲ請フ、官之ヲ詮議シ、同
願書を書き、右古絵図を添付し、その山の村への編入を申請した。役人はこれを審議し、
年八月廿一日ニ至リ、纔ニ認可ノ命ヲ蒙ルヲ得タリ、乃ハチ以テ谷ケ
その年の八月二十一日にようやく承認された。こうして山の土地は谷ケ
村共有財産ト爲ス、是ニ於テ衆庶相謀リ石ヲ樹て、名ケテ武尾梅吉積徳
村の共有財産となったのである。この機会に皆で相談の上石碑を建立し、武尾梅吉積徳之地と
ノ地ト曰ヒ、以テ君ノ功徳ヲ表シ併セテ共有山タルヲ証ス、後世子孫其
名付け、氏の功績を表すとともに共有山であることの証しとする。後の世代の子孫達は
レ能ク此ノ意ヲ体シ、心ヲ苟クモセズ、力ヲ協セテ之ヲ護リ、該共有山ヲ
よくこの意味を理解し、おろそかにせず、力を合わせてこれを守り、共有山を
シテ永久谷ケ村ノ不動産タラシメバ、復以テ君ノ効勞ニ報ユルニ、庶幾
永く谷ケ村の不動産とするのなら、また氏の功労に報いるため、願わくば
カランカ、後ノ谷ケ村ニ處スルモノ、此言ニ背カザラン■■之レ望ム。
後の谷ケ村に住む者達がこの言葉に背かずにいてくれることを望む。